2011年5月3日火曜日

there will be blood

 ゼア・ウィル・ビー・ブラッド













強欲な人間不信の石油で一代で財を築き上げた男が
家族という繋がりを求めるも
持ち前の頑固さとツンデレで全て断ち切ってしまう
迫力の158分全く退屈させない凄まじく濃厚な物語。

冒頭の台詞のない20分には
原始的な全ての始まりを予感させ、
2001年宇宙の旅の最初のシーンを思い起こした。
というか時たまに流れる不気味な音楽や
独特の構図からはキューブリックを思い起こせずにはいられない。

主人公であるプレインビューが追い求め続けた黒い血である石油が
最後に本物の血を彼に流させ、そして唱える
「終わったよ。」
という台詞はこの骨太の物語の終わりを告げると共に
イーライ神父との因縁、
彼の闘争の人生、徹底した人間不信、
全てに終わりを告げる言葉である。 

徹底的に個人主義で資本主義なプレインビューからは
現代社会のシステムを想起させる。
家族を切り捨て、成功していく
イーライも同じく個人主義者であり
だからこそ
彼らは互いに理解し憎悪し対立していくのではないだろうか。
二人は表裏一体で 
民衆を扇動するイーライに自分の醜さを見い出し 
つまり彼への怒りは歪めんだ自己嫌悪であり
最後に流れるイーライの血は自分自身の血であり、
だからこそこのとき彼の物語は終わりを迎えるのだ。 
 

劇中に女性がほとんど描かれないのは
彼の強欲の対象が女性ではないことを象徴しており、
彼の強欲の目的は全くわからない。
というか目的はないのだと思う。
そして彼が強欲になったきっかけも描かれない。

この濃厚だけれども空っぽの男の
スタートもゴールもカタルシスすらもない
ある種の虚無を感じさせる一代記は
社会全体に漂う未来への閉塞的、虚無的な雰囲気の
現代社会を象徴し見事に皮肉っているのではないだろうか。

現代アメリカを席巻する福音派と
イーライを重ねずに重ねずにはいられない点も
極めて現代的である。
彼がプレインビューに強制されて神の不在を叫ぶシーンには
熱心的な宗教家に胡散臭さしか感じない私には
爽快なシーンであったが、  

1900年初期を舞台としながらも
現代にシンクロするだけでなく、
普遍的な金と欲望という原罪を描き切った
本作はクラシックにド直球の傑作。

日本では過小評価されているように思えるが
間違いなく映画史のド真ん中に突き刺さる大傑作だ。

この作品を経たポール・トーマス・アンダーソンが
一体次にどんな映画を送り出すのか?
楽しみにするなとうのは無理な話である。